昭和50年08月16日 朝の御理解
御理解 第59節
「習うたことを忘れて、もどしても、師匠がどれだけ得をしたということはない。覚えておって出世をし、あの人のおかげでこれだけ出世したと言えば、それで師匠も喜ぶ。おかげを落としては、神は喜ばぬ。おかげを受けてくれれば、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ。」
自分が顔を崩す、顔を崩せば、神様も顔を崩される事になるのです。金光教の信心を頂いて、おかげを落とせば、金光大神もおかげを落とされた事になるのです。おかげを受ける、それはそのまま、神様もおかげを受けて下さるという。神様も喜んで下さって、金光大神も喜んで下さる。私共も喜ぶ。そういうおかげを受ける事を神様も願いとしておいでになるのですから、そういうおかげを頂けれる為の信心を身につけていかなければいけません。いわゆる神も喜び、金光大神も喜び氏子もの喜びと仰る。
嬉しの中にまぁ顔を崩したと思われますよね。それは師匠の顔もまた、崩れる事になるのです。だからここは、双方の、相互責任とでも申しましょうか。師匠としても又は弟子としても、神様としても、また氏子の自覚を持って信心を頂いておる私共と致しましても、ここに相互関係が生まれて参ります。その相互関係が、良い事になってくる訳です。有難い事になってこなければいけません。
始めて師匠も喜びと云う事になるのです。金光大神も喜び、氏子も喜びと云う事になるのです。先ずここのところの関係が、段々分かる様になりますとね。例えば苦しい、そこに神様済みませんと云う事になるのです。私が不徳の為にまぁおかげをよう頂ききらんでおる、苦しんでおると。そのまま神様相すみません。貴方を悲しませる、貴方を苦しめる結果になってと云う事になって来るのです。
相互の関係がその様な言わば、事になっておりませんと、おかげを頂ききらん顔を例えば崩すと云う事になりますとです。返って師匠を恨み神様を恨み、神様の言うならば、おかげ頂かせきらなかった様な事になって来る。そこの相互の関係と言う物が分っとらないと、そう云う事になる。もうそうにゃ信心したばってん、おかげ頂きらじゃったと云う事になる。おかげを落とせば落とす程、まぁ言うならば、落とすというか苦しければ苦しい程です。ここんところの関係は、いよいよ密なものに成って来る。
そこから生まれた信心。そこから育った信心は尊いと思いますね。もうそれこそ、「働けど働けど、わが暮らし楽にならざり、じっと手を見る」ではなくて、じっと自分の心の内というものを、改めて見直させて貰う。そこにあるはあるは、おかげを頂き得ない元がある。こう云う時に師匠はこう教えて下さった。金光大神がこう教えて居って下さっておったにもかかわらず、それを行じなかったばかりに、今日のこの悲惨な状態だとか、この苦しい事の結果になったんだと云う事になって。
もうただ苦しゅうございますと泣きつくと云う事だけではなくて、神様すみませんというものが生まれて来て。そこから何とも言いようのない素晴らしいものが生まれて来るのです。私共はまぁ言うならば、難儀をさせて頂くならば難儀を持っておりましたし、また、苦しんでおりました。金光様のご信心すりゃ、どうしてあんなに貧乏せんならんだろうかと言われた時代も御座いました。
けれども私の場合はね。何時もそれがあの、神様すみませんでした。ほかで泣くわけはいかんから、ご神前で泣くより仕方がない。泣いて取り返しがつく事ではないけれども。神様、あなたを私の不徳の為、不信心の為に貴方を悲しませておると云う事がです、いうならば、氏子の苦しみは、そのまま、神の苦しみと仰せられるのですから。私が苦しんでおると云う事は、そのまま神様が苦しんでおって下さるんだという実感が通う時に、そこから、素晴らしい信心が生まれてきておるのだと思います。
素晴らしいと言うか。いわゆる有難い信心が生まれて来る様に思います。言うならば神様と苦しいなりにもです。密なるものが、いよいよ濃いくなって行くのです。氏子の喜びはそのまま、だから神の喜びと云う事になるのです。ここんところがです。願えども願えどもというだけではなくてです。詫びて詫び抜く姿勢が要るようです。そういう時にいよいよ、謙虚な信心が身に付いてまいります。
お詫びをしながら頭の上に見上げとるものはありはしません。詫びれば詫びると云う事は、矢張り頭を低くするのです。そして私の心の中におかげが受けられる。はぁこういうものがあってはおかげが受けられないはずだというものをです。確かめ頂き止めて、そこを改まっていくところからです。おかげの受けられる信心が生まれて来るのです。昨夜、前夜祭が終わりましたのが、九時過ぎだったでしょうかね。お話が終わって、それからあただに、共励殿を片付くのを待って、富久信会が御座いました。
いわゆる商売をなさる方達ばっかりのご信者さんの集いであります。それこそ三十名から昨日はおられましたのが。まぁ色々とお話をさせて頂くのと同時に、色々とお話を聞かせて貰ます中に。例えば商売人がね、いうならば遊び事ども、身に付けるというか、覚えると言った様な事ではおかげは受けられんばい。そこでですほんならある人がそれこそ、おかげが受けられん自分というものを見極めた時に、成程自分がこげな遊び好きであったり、自分がこういう心の状態では。
神様がおかげを下さる筈はないとまぁ悟った訳です。そこでです神様このいうならば機感に叶わん、御理解じゃない機感に叶わぬと云う事である。神様の気心に叶わない様な、道楽やら遊びやらは一切致しませんと例えば約束をした。おかげで本当にそういう約束をした途端に、商売が具合よう行きだした。ところがやっぱ遊びの虫というものが、そこにあるもんですから具合良くなった、調子が良くなったと云う事になった時です。あ、金光様、金光様というて、まぁ金光様の心を向けさせて頂いておった。
調子は段々良くなった。毎日お参りも出来る様になった。ところがじっとその、心の中に遊びの虫が頭を持ち上げた。言うならば遊びに行く方に、ハンドルを切らせて頂いた。途端におかげを落とした。という話と同じ様な事が。途端に乗っておる車で、ラジオがついてた。昨日お参りをして頂いた御理解と同じ言葉が、突然飛び出してきた。もうその時にもう、それこそはっとする程びっくりして、遊びの方へ行こうとする車を、反対の方へ向けて、また商売に向かった。
そしたら今までかって無かった程しの素晴らしいおかげを頂いて、それが今に続いておるという話でした。だから自分を見る事見る事と言われる、自分を本気で見て。はぁこういう心の状態があったり、こういう悪い癖があったりしたんではです。神様がおかげを下さるはずが無いという物。おかげの受けられる筈が無いというものを、取り除かせて頂くと言う事です。そこにいわゆる改まった信心が生まれる。そして神様は、確かめた上にも確かめて、もうこのまぁ例えばですよそれは。
もうこの男は幾らお金を持たしても、遊び事にども、賭け事にども使う様な事がないと確かめられるとこから、生まれて来るおかげが本当のおかげです。だから本当に例えば苦しい時です。いうならば神様すみません。私が此の様な状態でおかげを受けて受けきらん。言うならば金光様の信心しよら、あげな貧乏せんならんだろうかと言う様な所を通らせて頂く時にです。私は改まっていったと思います。
そしてそのおかげの受けもの、心の状態が、おかげを神様が下さっても、もう落とす様な事はあるまいと見極めを付けて下さった頃から、本当なおかげが頂けてきた。そこにです、言うならば金光大神も喜び神も喜び。ただねがむしゃらにお願いをしてお取次ぎを頂き、おかげを頂くと言うけれども、ただ頂いたおかげと言う様なものはね。頂いたおかげというのは、身に付けなくては、ただ願って頂いたというおかげはもろいです。願わんでも頼まんでも、こちらに受け物が出来た時に。
そこから受けて行く所のおかげ。神様がいうならば、願わんでも安心して、神様が喜んで下さる様なおかげを頂いて、初めて金光大神も喜んで下さる、神も喜んで下さると云う事になるのです。はら金光様はあらたかだ。お願いすりゃおかげが受けられる。成程そういう時代から信心が始まる訳ですけれども。中にはまだ合楽にお参りをされる様になって、富久信会だけに出て見える方があります。
神戸から出て見えます。毎月もうこの富久信会だけはと言うので、沢山な旅費を使うて時間を使うてもうとにかく、旅費が無いならば、まぁ言うなら無理三段をしてからでもお参りをして来るという方です。だからその方に私が、まぁ言わば代弁しましたのです。○○さん、あぁたの様な場合には、どう云う事になっておるんだろうか。もうとにかく日々がもうとにかく、苦しゅうして、苦しゅうして応えんという中をです。
もう不思議な、それこそ不思議なおかげを頂いておる訳です。もう銀行という銀行からは、もう断られてしまっておる。作った製品は不良で、向こうが受けてくれない。それにまぁだ二つも三つも、様々な難儀な問題が重なって来ておる。勿論お願いをする電話である。そういう時に、はぁしっかり頑張りなさい、頑張り抜きなさいよと言うたんでは、おかげになっていないのです。
私は申しました。「頑張り抜くのじゃない。頂き抜くのよ」と申しました。「さぁ、もう一遍銀行へ行きなさい」銀行へいけれる、言うなら、もう顔は潰してしもうとるとじゃから、出来る筈はないとじゃもん。けれども例えば、どげんえげつのう言うて断られてもです、頑張るというのじゃなくて、ほんなら、不幸のその時点を頂きぬくと言う事なんだ。
頑張りなさいじゃなくて、頂抜くと云う事から、腹が決まった。おかげを頂いて、出来ない筈のが出来て来た。工場の方で、不良で受け付けてくれなかったのが、あれは他所んとと間違うとった。あれは全部受けると云う事になって来た。もう、あっという間にですね。そこんところの、いうならば、そういう体験を昨日、その方がして下さると、もっと実感が強かった。
私が代弁する事である。私がこの頃お取次ぎをして頂いた事なんです。ですからそういう時にはです。例えば今日私が申します様な、神様との本当の交流がある、出来る筈はない、苦しゅう御座います。神様も一緒に苦しんでおって下さるなどと云う事は、分かる筈はありません。ただ苦しいばっかり。けどもただ、その時その時の御理解が。おかげのルートを開いてくれる。
そういうところを、繰り返し繰り返し頂いて行く内にです。神様と私共との言うならば、関わり合い、相互関係というものが段々分かって来る。私は金光様のご信心はね。親の心がいよいよ分かって来ると云う事だと思う。本当に親様だなと云う事が分かって来る事だと思うんです。段々、その辺の交流が出来て来る様になりますとです。本当に素晴らしい事になってまいります。
最後に、正義さんと文雄さんに、私が発表を求めました。一言でしたけれども、もう本当に、そこだけはやっぱ、お互い信心を頂かにゃいけないねというて、私自身もおかげを受けたんですけれども。正義さんがこう云う事を言いました。お客様はみんな神様が差し向けて下さる。あれが良いのこれがいけないのじゃない。みんな神様が差し向けて下さるお客様ですから。
そのお客様を大事にせずには居られませんと言うのです。ただそれこそ自分の所へ来て金儲けをさせて下さる、そのお客さんだけが有難いのじゃない。場合には損をかける様なお客さんもあるけれども、それは神様が差し向けて下さるのだから、私は大事にします。これだけはもうどんな場合であっても、徹底大事にする事を努めておる。私はそれを聞きながらね。もうこらあの本当の信心が、本当に身に着いて、本当に行の上に現しておる姿です。はぁらもう、お客様は大事にする。
そら商売人は、大事にしないはずは無いけれども、自分の都合の悪かつは大事にしないというのであっては、本当に大事にしておると云う事じゃないです。文雄さんがこう言う事を言ってました。そうですね、僕の場合は。家で商売はしていない。いわゆる、行商なんです。ですから、お客さんが来て下さると云う事はない。けれども私の場合はです。今日はどこに行こう、あそこに行こうと云う事ではなくて、神様に御祈念をさしてもらい。神様に祈らせて貰うてです。
自分の心のなかにもういうならば、当てはないけれども。神様が右というて下さるごとありゃ右に行き。心に左と思うたら、左にやらせて頂ますとこう言う。一日例えばそういうあり方で歩かせて頂いて、例え商いがなかってもです。自分の心の命ずるまま、言うならば、私の内なる神が命じて下さるまにまに動いたんですから、例えそれが、売れなくっても、今日は良か修行させて頂いて有難いであり。また事実。そういう生き方を取らせて頂いておるから、無駄のないおかげを頂くという意味の話をしておりました。
素晴らしいでしょう皆さん。全然、卒はないもん二人の話に。それこそこういう信心が、いよいよ募って行くときに、私は水も漏らさんおかげだと思うです。いうならば師匠が教えてくれておる事をです。本当に行じておる訳です。そしておかげを頂いて、親先生有難う御座いますと云う事にもなりゃ、金光大神有難う御座いますと云う事にもなりゃ、神様有難う御座いますと云う事にもなるから。金光大神も喜び神も喜び氏子も喜びということになるのです。もう時間がもう十二時やんがて半になる。
これにまぁいっちょ、高橋さんがおりましたから、高橋さんの話を聞くとまた二人とは違った意味での、商売のあり方が違いますから。まぁ面白かばってんかもうこの次にしようと言った様な事で終わらせて頂ましたがね。言うならば、師匠が教えた事を行じておるんです。神の言うた事は、途中で落としてしまい。神を恨むようなものがある。これは相互関係というものが出来とらんからそう言う事になるのです。
関わり合いというものが、ただ。神様とおかげ受けるもの側の、言わば人間と云う事になっとるとじゃもん。親神様であり氏子であるという、いうなら関わり合いをいよいよ、密にしてまいりませんとね。そして師匠が教えた事を。本気で実生活の上にも現して、おかげを受けて行く。それでもなおかつ、苦しい事が続いてもです。その苦しい事もまたです。もういよいよ神様と密に交流する元になって行く。苦しゅう御座います、けれども、私が苦しいぐらいな事でない。
親の苦しみはもっと苦しみを神様に味あわせて、親に味あわせておると思うたら、相すみませんというて、涙を流して神様に詫びる氏子が少ないと。四神様の御教えの中にはね。どうぞ苦しゅう御座います、助けて下さい、助けて下さいというて、泣いて願う氏子はあるけれども。こういう苦しみを神様にさせておって、相すみませんというて、涙を流して詫びる氏子が少ないと言われる。そこに交流というものがないです。苦しいから、どうぞ助けて下さい、助けて下さいというとこにゃ、密なる親子の交流がないです。涙を流して詫びる。
そこに神様はまた、次の教え甲斐のあるおかげ。皆さん、これではおかげが受けられないという物を、自分の心の中から一つ、頂かせて貰うて、そして思わせて頂く事なんですけれども。もう唯々恐れ入ってしまうという生活をさせて貰わなきゃいけません。恐れ入るところに、言うなら、慢心は出ません。恐れ入るところに。いよいよ実意丁寧の信心は生まれます。恐れ入った生活をね。本当にもう毎日毎日。夕べ私繁雄さんと話した事でしたけれどね。ある事で今朝から夕べは夜通しでしたもん。
繁雄さんに足揉んで貰いよりましたら、文雄さんがまた足揉み来ましたもん。ほんならもう、早うもう遅かけんはよバタバタもうじから、はよ帰って貰おうと思うちから、もう、しよるとすんでに、高橋さんがやって来ました。あんた達はいらんこつ今頃来てから。何しに来たつのち、あっは言うたけれども、まぁ来たもんですから、さぁ電気をつくる、テレビをつけたら、ちょっと面白かつがありよったもんだから、ちょうど今朝の三時十五分までありました。
それは私が丁度起きらんならん時間なんですから。皆んなもそのままだったでしょうが、私もそのまま、こちらへ出て来ました。そして今朝繁雄さんが御用して下さるなりに、繁雄さんに話しました。昨日からずっとあんた奉仕してくれよる。もう本当に神様の、一分一厘間違いのない事には、唯々恐れ入ってしまうのち。ほんなこて恐れ入ってしまいますねち。ま繁雄さんと今朝出がけに言うた事が、その言葉でした。私は本当に神様の一分一厘、そら良しにつけ悪しきにつけです。
間違いのない一分一厘間違いのない働きを身に感ずるから、恐れ入りますと言うことになるです。その恐れ入りますという地を低うするから、おかげが低いところへ、低いところへと流れて来るのです。おかげと言うものは水の様なもんです。高いところには流れません。低いところへ低いところへとよって水が流れて来る様に、そこにおかげは集まるのです。そして、おかげを受けて。
いよいよ勿体ないいよいよ有難い。いわゆる恐れ入った信心生活が出来る。そこに限りないおかげが恵まれてくる。そこにいわゆる神も喜び、金光大神も喜び。言うならば師匠も喜び、氏子も喜びじゃということになるのじゃないでしょうか。先ずはおかげを受けてくれなければ。神様もおかげを受けて下さる事にはならんのである。先ずは氏子が助かってくれる事によって、神様も助かって下さる。そういう関係が私共が頂いておる、天地金乃神様であります。
どうぞ。